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#建築
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東国の鄙びた漁村に家康が入国したのは、1580年の初秋でした。当時の江戸は民家が100軒ほどあるばかりで、ゆりかもめの群れの中に小舟が浮かび、背後はもう武蔵野です。今、下町と言われているあたりのほとんどは

葦に覆われていました。これが江戸の原風景です。

 

そこに俄かに旗本八万騎と一族郎党が移住してきたのです。まずはその住宅を確保しなければなりません。       城の北西に位置する現在の千代田区・番町を、家臣たちの居住地に定めました。

EDO/TOKYO

江戸で最初の街、番町の都市計画には仕掛けがあります。碁盤目に区画されてますが、横方向の道路に沿って西南西に延長すると

富士山です。番町のどこの道でも富士山が望めるように設計されていました。静岡市の駿府城から移ってきたばかりの家臣団は

富士山を仰ぐたびに郷愁に誘われ、また結束を新たにしました。

 

一方、下町は埋め立てられ運河が張り巡らされました。ヴェネチアにも匹敵するような「水の都」と変貌しました。首都高の環状線を車で走ると、京橋から東銀座あたりまでは地面より随分と低いところを走ります。ここは昔の築地川の川底です。船と同じ目線で車が走っていることになります。新橋の「采女橋」などは川だった当時の橋をそのまま使い、下を首都高がくぐります。

番町.jpg

こんな風に東京のなかの江戸を探しているうちに集まった本を展示しています。
 

『東京の空間人類学』(1985)江戸=東京を連続性で解析した名著です。

『江戸東京 地形の謎』(2013)古地図に照らし合わせて江戸の痕跡を東京中で探します。

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